私ごとをもう少し2012年03月08日 16時03分24秒

★自らと向き合い内面を見つめ直すと

 今日もどんよりとした曇り空。昨晩もだが雨は降りそうだったが降らなかった。暖かい陽気が続いたせいか今日はややうすら寒く感じる。

 これは書くべきか迷っていたのだが、本当に私ごとを書くことにする。これを書かないことには次のブログに進めない。これを書くことはすごく恥ずかしい。が、これまでもすべてあからさまに書いてきた。ならば書かないわけにもいくまい。

 このところ3.24の宣伝告知もあって、友人知人たちにハガキやメールで連絡をとっていた。ハガキは約50人弱、メールはもう少し少ないが両方送った人も多いからまあその数はかなりのものとなる。
 中にはすぐに返信返答をハガキでも返してくれた方もいるが、そのかなりの部分、三分の二以上は返答も連絡も何も返ってこない。ダイレクトメールのような無味乾燥な印刷物ではなく、一応こちらは手書きで近況など一筆したためてはいるのだが。
 むろん、当日近くにならないと参加したくても予定が出ず返答できないという方も多いのかもしれない。返信が届いた人はすべてその日は都合が悪く参加できないという連絡であったから。
 自分は連絡が返らないことを全く問題としてはいない。自分だってこれまではきっと忙しさを自ら理由にしてそのままにしてきていたかと思う。
 ただ今回、一昨年のフォークロアセンター40周年記念コンサート以降、これまで音楽を通して関わりを持った人たちと改めて今回個々に連絡してみて人間関係というべきか、自分にとっての他者とはどういう存在なのか深く考えさせられた。そのことを書く。本当に私ごとだ。

 人は皆自分勝手で自分のこと、自分の都合しか考えない動物なんだと思うし、それに異論はないと思うが、それにしても私、増坊ほど自分勝手な自分のことしか考えない人間はいないのではないか。ようやくそのことに思い至った。※これまでも結果疎遠となった友人からは指摘されたことはあったがその時はピンと来なかった。

 物心ついてからはともかく、大学を出てからも自分にとってモノゴトの原則、関心というのは、自分のことだけであった。むろん、実人生や将来のことを真剣に考えるならそれは良い。だが、自分にとって自分のこととは自分の興味と関心のあることやモノだけであり、他者もそこに介在はしてくるが、それだっていかに楽しく面白いことが一緒にできるかということだけが存在理由であり、その人の立場や意志、気持ちに忖度することはまずなかった。

 物欲にも溺れたし、いかに自分が面白おかしく楽しく過ごせるかだけが大事であってまさにイソップ物語の中のアリとキリギリスの寓話のキリギリスのように刹那的にその場しのぎで生きてきた。以前はそれもまた自己責任において良しとしてきたし人様に迷惑さえかけなければどう生きたっていいじゃないかと開き直るように思っていた。
 ではそうした生き方に揺るがない自信があるかと言えばそれは全くなく、風にそよぐ葦のごとく、外の世界の働きかけにすぐに反応しては些細なことにでもすぐ動揺ばかりしていた。理由は簡単で、自分も含めてそうした人間には内実となる核というか、自らを律する原則がないからで、そのときどき外のことや他者に振り回されるばかりであった。それはマスコミに煽られて流行とされるファッションを次々買い求めるブランド女たちとどう違うのか。

 自分とはいったい何であるか。どんな人間であるのか。そしてどう生きるべきか。まっとうな人間であれば、たぶん大人になって社会に出ようとするとき、そして結婚や子供が生まれるときに嫌でも自問したに違いない。だが、自分はそのどれもせずにきちんとその問いに向き合うこともなく、いつまでも永遠の子供のままであるように、快楽だけを求めてこの年までのんべんだらりと生きてきたのである。
 何がしたいか、何が欲しいかはわかっていた。だからそれには忠実に生きてきた。だが、大切なことは何がしたいかではなく何をすべきかであった。そのことを考えず常にいい歳して楽しいことだけ追い求める生き方は当然あちこちで他者と軋轢を生む。常に自分のことだけしか考えない人間は誰からも相手にされなくなっていく。

 さすがにこのところこんな自分も内省的になってきて、自分の内面を覗きこんでみるようになった。実は今まではそうしたトラブルがあっても自らと向き合うことは避けてずっと逃げていた。それは酒によるところが大きい。呑んで酔っ払っ愚痴をこぼしてそのまま眠ってしまえば嫌なことは忘れられた。本当の自分と向き合うことが怖かったのだ。
 このところその酒とも離れて素面でいることが多いと、様々な漠然とした不安や怖れが高まってきて息苦しくなることが多い。また訳もなく怒りや苛立ちに襲われ、老親、特にボケ親父に高圧的になってついつい怒りをぶつけてしまう。

 これまではそうしたことは皆外の側、つまり問題も原因も他者にあるのだと思っていた。自分がイライラすること、訳のわからない不安に襲われることも皆誰々が悪いから、誰々のせいだと考えていた。しかし、ようやくついに気がついた。全ての問題はこの身のうち、自らにあったのである。
 つまり雨が降るといつも憂鬱になる自分だが、雨には責任もないし雨の日だって憂鬱にならない人だってたくさんいる。要は反応の仕方であり、それをどう主体的に良い方向にとらえるかだけのことであったのだ。ボケ老人と暮らしていても過剰に反応する人もいれば、まったく動じない人もいよう。ならばすべてにおいてできるだけ平静であるよう良い方向に心すれば良いだけことではないのか。

 自分はモノズキでモノが捨てられず、モノに囲まれてずっと生きてきた。でも真に大切なものはモノではなく、人であり人間関係であった。そして人が生きていることであった。そのことに気付かされたのはやはり3.11を体験し、津波被災地を一瞬でも垣間見、結局のところ最後は体だけ、身一つ、命だけしか残らないと認識したからだ。

 そして今思う。人は何をすべきなのか。まして残された人生自分は何ができるのか。常にその時々の快楽だけで生きてきた人間には、その中身、本質がまったくなかった。自分が生きていくだけの意味と価値、その原則を今さらであるが確立しなければと強く願う。

 いつどんなときでも外に何が起きても動じない心、そして他者に対して常に慈しみを持つようにしたいと願う。
 もうどんなことにも囚われず振り回されずに本当の人生、自分の人生をしっかり生きたい。このままではあまりに情けない。
 いい歳して恥ずかしいがこれは嘘偽りない気持ちなのだ。