3.11から1年 全ての人に心の平和を2012年03月11日 10時23分34秒

日比谷公園45000人の黙祷
★哀しみの中から希望の火を灯していこう。

 暖かい朝である。曇りがちだが穏やかな日差しもある春の日だ。
 これから午後の集会に行くので、戻ったらその報告を兼ねて思うことを書きたい。
 が、その前に・・・

 大震災で期せずして思い残して亡くなった方の無念は想像に余りある。が、生き残った人たちも決して幸せではなく、その幸運ささえ呪うことすらあるとも聞く。というのは、親しい大事な人たちを失い、家もなくし住むところも追われてその上仕事さえない状態では、生き残って生きていることは幸福だとは誰だって言えやしない。

 命こそ宝、行きていれば何だってできるとは真実の言葉であるが、被災した方々にそんな励ましは方便にもならないかもしれない。生きているより死んだほうが幸せだったのではないかという迷いが頭をよぎるときもあろう。
 人との絆や命の大切は叫ばれてもではじっさいに人は人のためにどれほどのことが出来るのか。義捐金は送っても、被災地の瓦礫が自分の町に来ることには目くじらを立てるのが人間なのである。つまり気持ちや心を金で済むことなら金で済ませるが、その先のアクションまでは頭ではわかっていても行動が伴わない。
 自分も人の子であるからそうした気持ちはよくわかるし、被災地や被災された方々を悼む気持ちは強くあってもじっさいどれほどのことをしたのか恥ずかしく思う。
 だから何一つエラソーなことは言えないし書くべきではないとも思っている。だけれどまた一つだけこうも思える。

 この1年、大震災とは関係なく、自分周りで死んだ友人知人は数えてみれば4人にもなる。年老いて亡くなった方はともかく、自殺した人もいる。つまるところそうした人は生きている大変さ、苦しみよりも死の安楽さを選んだのであろう。人は生きている限り確かに苦しみはずっと続く。
だからそれもまた個人の選択の自由だという声もある。どうしてそれを止められなかったのかと周囲の者の悔やみはいかほどかとも考える。人の死とは死んだ者のものではなく生き残った人たちのものである。

 情けないのは、生きていることは良いこと、有り難いことなんだとじっさいにそれを証明、実感させる術を我々、いや自分は持たないことだ。死にたくもないのに死んだ人がいるのに自分から死ぬなんてもったいない、とんでもないという意見は全く説得力ない。人生とは全員のものではなく、個々個別のものであり、どう使うかはその人自身に委ねられている。が、その運命は神の見えざる手に繰られている。

 問題はそのバランスなんだと思える。大震災で不慮にして亡くなった方、そして生き残っても地獄のような苦しみの中で生きている方、生と死の狭間で今も苦悶しているに違いない。願わくば哀しみは哀しみのままに、そして哀しみの中から希望の火が燃えさかるように。
 今心より願うのは、全ての人の心に平穏が、平和が来るようにである。

コメント

_ パンダ ― 2012/03/11 22時18分05秒

始めまして。たまたまこのブログを拝見しました。

このブログを読んで、今の自分に言われてるような感覚になりました。

自分ゎ嫌なこと、辛いことがあるとすぐに死を考える性格です。いなくなったほうが楽。。。まさにこのブログに書かれてるように逃げることしかかんがえておらず命とゆうものを簡単に捨てる感覚でいました。東日本大震災の方々を考えれば死を簡単にゆうなとおもっていてもやっぱり自分のことしか考えてない。自分の今このちっぽけな辛さしか考えてない自分がいました。このブログを拝見して今の自分の心に痛感させられました。今、この与えられた全てのことを大切にしていきたいです。

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