全てのことには意味と理由があるのだとしたら2012年03月01日 23時23分28秒

★人は何を唄うのか

 3月に入った。今日は暖かくなって終日昨日の雪が溶け落ちる音がぼとぼとと雨のようにあちこちでしていた。都内ではたぶんもう今日一日で雪は大方融けてしまっただろうが、奥多摩の山並みの麓に当るウチの方では日陰ではまだかなり積ったまま残っている。しかし明日は雨だというし、これからは一雨ごとに暖かくなっていく。
 季節は繰り返す。が、人は同じではない。去年の今頃ふらっとウチに来た人がもうこの世にいない。

 この数年来、ほぼ毎晩のように聖書を旧約も含め寝る前に読んでいる。新訳のほうは既にヨハネの黙示録以外は全て何回も読み返した。今は、旧約の中から、立法書とかの難解かつ契約書の類は除いて読みやすい物語だけ選んで読み続けている。二千年以上も前の他国の人々の話なのに今日でも十分読む価値と深い意味に満ちている。
 面白いとかいう以前に、聖書はヘブライ人のみらず人類の遺産であるし、多くのメッセージと示唆に富み迷い悩む弱き人々の指針となる素晴らしい本である。
 このところまた迷いはじめどうしたものかと困惑することが多い自分であったが、聖書のおかげか今日はまた一つ啓示を受けた。まずそのことを書く。

 それは全てのこと、全てのものには、起こることも含めて意味と理由があるということだ。
 つまりどんなことにも偶然などはないし、全てのことには起きる理由や起こる意味、必然性があるということだ。それはどんな悲惨な出来事、辛い残念なことでもそれが起こるには理由もあるしそこに意味がある。全くの無意味なこと、無駄なことなどこの世には一つもない。

 ならばこの致命的にだらしがなく犯罪的に愚かで習慣的に何度でもアヤマチを繰り返すどうしようもなく罪深い自分でもそこに生きている理由、いや生かされている理由があるのだと思えてきた。何しろナザレトのイエス生存時に師の周りにいた弟子達は皆あれほど弱く愚かだったのである。後に教会の礎となったペテロでさえ口先だけは師に誓いつつ何度も保身のために師を否定している。偉大なパウロは元々はキリスト教迫害者であり、イエスの死後最初の殉教者ステファノを皆でリンチ殺人したときの手下であった。

 聖書とはそうした弱き愚かな人間たちが使徒に召され後に布教のために命も惜しまない偉大な聖人へとなっていく成長譚でもあるし、そんな弱い人間の持つダメさを赦す深い愛に満ちている。
 かといってダメでかまわない、それでも良いということではない。人はそうした弱いもの、罪深い者だと自ら認め悔い改めるべきなのである。人は自らの弱さを知り他者の弱さに気がつき赦さねばならない。互いに赦し助け合うことこそ原始キリスト教の教えであった。聖書には良き人の良い行いがいくつも喩え話で記されている。

 全てのことには時がある。そして全てのことには意味と理由がある。ならばどのよう結果が起ころうが何も怖れることはないではないか。それもまた神の計らいなのである。
 
 そうだからこそ、人は漫然と生きてはならない。人は生きること、すべきことに意味と理由を見出すべきであろう。ならばうたうことにだって同じだ。
 人は何をなぜうたうのか。そのことを書いていく。

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